デュティランボスとはウィキペディアによると以下の説明がある。
古代ギリシアの讃歌のこと。元々はディオニューソス神を称えるものだった。その熱狂的な性格はしばしばアポローン神への讃歌(パイアン)と対比される。ディテュランボスは最高50人の成人男子または少年からなるコロスによって歌われる。コロスは輪になって踊り、確かな証拠はないが、当初はサテュロスの扮装をしていたものと思われる。
中西進「古代史で読む万葉集」で柿本人麻呂の歌につき次のような記述があったのを見て、コロスを想い浮かべ、類似点が気になっていた。今日、Facebookで脳科学者、医師の本田学さんのノートを読んでまたヒントをもらったような気がして、ますますその思いを強くした。
そのフレーズの一部
脳の仕組みを活用する作戦は、現存する「宗教」すべてに当てはまるものではないかもしれない。しかし、かなり大多数の宗教が、絢爛豪華な視空間情報や音響情報を活用した何らかの宗教儀式のプロトコルを具えている
そして、中西さんの記述は以下の部分
殯宮(もがりのみや)の儀礼とは哀哭(みね)をたてまつり、歌舞を奏し、誅(しのびごと)をつぎつぎに読み上げるものだ。歌は、この時代に誅のような形式で儀式の後に誦詠されたものであろう。この殯宮挽歌は先にも後にも例のないもので、天武朝以降の葬送の典礼の整備と密接に関係をもっている。人麻呂はその死の儀礼の歌人であった。
また、この殯宮挽歌は参列者集団の意志において行われるために、必ずしも個人的感情だけで詠嘆するものでもない。だからかつての葬送に歌われた歌も謡われ、人麻呂が口にしても他人の作であったりする。このような集団性はこのおりの歌の詠唱の仕方とも関係があり、葬送者一般も人麻呂とともに詠唱に加わる場合が想像される。たとえば倭建命(やまとたけるのみこと)が死に際して歌ったものとして、古来大切に伝えられてきた挽歌は、この時代にもおよんで天皇の葬送に歌われたようである。むしろ人麻呂は個人的過ぎたのであって、集団歌である挽歌を、歌人という立場によって個人的文芸に転換せしめる結果ともなった。従来個人の資格において挽歌を献るのは、天皇の葬送にのみ限って、その後宮の女たちが歌うだけだったのだから。(以上は122ページ~123ページ)
吉野の歌においては分化すべき自然が人間と融在していることをしめす。そこにまた、ひとつの人麻呂の感受の仕方がある。(中略)吉野は清き河内なのだが、またかくのごとき天皇の行幸を得て、そのことが吉野を「清き土地」とする。という論理がある。「清し」という万葉のことばは、単に清浄感のみならず、神聖なる感情をあらわすもので、天皇の行幸にともなって用いられることが多い。これは人事による自然の所有だった。人麻呂は、それが神なる日の皇子の資格によって可能だったと考えた。
この信念を考えないと、軽皇子従駕の歌も解くことがむずかしいだろう。この歌は軽皇子の都から安騎野への道行きを述べ、
み雪降る 阿騎の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしえ)思いて
(雪が降る安騎野に薄や篠竹を敷いて旅宿りをなさる。昔のことをしのんで)
と結ぶものだが、単なる懐旧の情という以上に、この地がかつて軽の父草壁の遊猟の地であったことが、人麻呂をして、土地そのものが草壁であると感じさせているのではないか。少なくとも他の行幸従駕の歌の例にしたがうかぎり、ここは山川をあげて天皇に奉仕する「清なる」地であり、猪鹿(しし)も鶉(うずら)も、また降る雪も、そのことごとくが奉仕するというのである。
昔から日本の文芸には、「道行き」と称する、地名をつぎつぎにあげていく手法がある。何のためにこのようなことが行われるのか。リズミカルな効果をねらった技巧だと考える以外にない。
黒人(高市黒人たけちのくろひと)は近江京の荒廃を、「国つみ神のうらさびて」荒れたと嘆いている。人麻呂にもこのような古来の信仰が働いていたはずだ。そしてまた、彼は、神なる日の皇子が自然を領有すると信じていたのだろう。(以上は138ページ~139ページ)
2025-02-05
絆と意味と質量
今年の漢字は「絆」ということになった。
そして、このほどヒッグス粒子が発見される可能性が高まったという報道に接した。門外漢の私としては何か分かりやすい説明がないものかと探していたが、この長谷川さんの説明が素人には非常にわかりやすかった。
そこで、これを見て感じたこと。
質量の生まれる過程にはヒッグス粒子がかかわっているようだが、その経緯は対称性の破れにあるそうでマンガの記述が秀逸。以下その記述。
物理学者がたくさん集まったパーティー会場で、人々は近くの人々と静かにおしゃべりをしている。
• 物理学者がヒッグス粒子に対応している。おしゃべりが、相互作用に相当し、起こったり起こらなかったりしている。
パーティー会場に高名な物理学者が入って来ると、周りに人々が集まってくる。高名な物理学者は、動きにくくなる。
•高名な物理学者が素粒子に対応。
•動きにくくなる→質量を持った。
パーティ会場に「噂」が流れる。「噂」の周りに人集りができる。人集りは動きにくくなる。
ヒッグス粒子が自分で集まり(自己相互作用)、質量を持つようになる。
真空は、何もない空間ではなく、ヒッグス粒子が満ち溢れている。
• 素粒子は、ヒッグス粒子と相互作用することによって、抵抗力を受ける。
→ 質量を持った!!
つい先日読了した小坂井敏晶「民族という虚構」の記述とのアナロジーがおもしろい。
以下その記述。(219ページ)
間は音声の単なる欠如ではなく、各音声は孤立した音声を持たない。個々の音声を変質させる力としての間が作用して初めて、音楽や芝居という複雑な意味世界が成立する。同様に、各個人が自律的に完結し、外に対して閉じた存在であったならば、個人をいくら集めてみたところで共同体は生まれ得ない。人間が本質的に欠如を内在する関係態だからこそ、あるいは他の言い方をするならば、人間には本質なるものがそもそも存在しないからこそ、他の生物とは比べものにならない複雑かつ多様な共同体が成立する。欠如や不完全を否定的角度から捉えるのはやめよう。不足のおかげで運動が生まれ、変化が可能になる。この章では、集団責任が依存する論理の検討から始め、共同体の絆は契約のような合理的発想では説明できないことを明らかにした。
そして、このほどヒッグス粒子が発見される可能性が高まったという報道に接した。門外漢の私としては何か分かりやすい説明がないものかと探していたが、この長谷川さんの説明が素人には非常にわかりやすかった。
そこで、これを見て感じたこと。
質量の生まれる過程にはヒッグス粒子がかかわっているようだが、その経緯は対称性の破れにあるそうでマンガの記述が秀逸。以下その記述。
物理学者がたくさん集まったパーティー会場で、人々は近くの人々と静かにおしゃべりをしている。
• 物理学者がヒッグス粒子に対応している。おしゃべりが、相互作用に相当し、起こったり起こらなかったりしている。
パーティー会場に高名な物理学者が入って来ると、周りに人々が集まってくる。高名な物理学者は、動きにくくなる。
•高名な物理学者が素粒子に対応。
•動きにくくなる→質量を持った。
パーティ会場に「噂」が流れる。「噂」の周りに人集りができる。人集りは動きにくくなる。
ヒッグス粒子が自分で集まり(自己相互作用)、質量を持つようになる。
真空は、何もない空間ではなく、ヒッグス粒子が満ち溢れている。
• 素粒子は、ヒッグス粒子と相互作用することによって、抵抗力を受ける。
→ 質量を持った!!
つい先日読了した小坂井敏晶「民族という虚構」の記述とのアナロジーがおもしろい。
以下その記述。(219ページ)
間は音声の単なる欠如ではなく、各音声は孤立した音声を持たない。個々の音声を変質させる力としての間が作用して初めて、音楽や芝居という複雑な意味世界が成立する。同様に、各個人が自律的に完結し、外に対して閉じた存在であったならば、個人をいくら集めてみたところで共同体は生まれ得ない。人間が本質的に欠如を内在する関係態だからこそ、あるいは他の言い方をするならば、人間には本質なるものがそもそも存在しないからこそ、他の生物とは比べものにならない複雑かつ多様な共同体が成立する。欠如や不完全を否定的角度から捉えるのはやめよう。不足のおかげで運動が生まれ、変化が可能になる。この章では、集団責任が依存する論理の検討から始め、共同体の絆は契約のような合理的発想では説明できないことを明らかにした。
テクストという決定不可能な遊動空間
新田義弘の「現象学と解釈学」を読んでいて、文献解釈学の解説に以下の記述があった。(248ページ)。少し長いが引用する。このくだりはいろいろな意味で挑発的な記述と感じたので。
意味の形成体としてのテクストは、世界付着性(Welthaftigkeit)をもつものとして、そのつど他に取り替えのきかない「現に在る(Da sein)」としての固有の個別的性格をもっている。したがってテクストは、構造体としてもつ普遍的な契機すなわち反復可能な性格をもつとともに、個別的統一性としての反復不可能な、一回性の性格をもっている。この二つの契機が契合されることによって、テクストは象徴性の性格を帯びている。象徴は解読されねばならない。すなわちテクストはたえず読者による解読を促すのであり、その意味でテクストとともに、いわば「決定不可能な遊動空間」が与えられるのである。インガルデンはこれをテクストにおける「無規定的な箇所」とよんでいる。テクストは、構造的に意味の補充を必要としているのであり、解釈を介して初めて存在する。あるいは具体化する(インガルデン)のである。ひとことでいえば、テクストは解釈を必要とする形成体である。書かれたテクストは読むことができる(lesbar)だけでなく、読むことを必要としているのである。それゆえ解釈の多様性、意味の多様性は、テクストの構造そのものに由来すると考えることもできる。ここに、意味充足の多様性である解釈の複数性という、テクストに固有のパースペクティブ性が機能するのである。テクストのもつパースペクティブ性は知覚物のパースペクティブ性とは次元を異にしている。解釈は作品に外から付け加えられる余剰ではなく、作品やテクストの構想そのものに必然的に含まれる欠如の補充としての余剰であり、作品の内から促されるものなのである。
この文章を読んで、はじめに感じたのはC言語の構造体、次いでたんぱく質の立体構造、そしてハイデガーの時間論だった。物の持つ「かたち」の重要性はいうまでもないが、このかたちのもつ意味はそれ自体では決定されない。これを見たり、触ったり、周囲の物との相互作用を通じてはじめて意味が生じてくる。解釈の重要性を議論する上記の記述はまさしく、議論の枠を超えた意味を読み取ることのできる記述になっているといえる。非常に刺激的な記述という気がした。
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